さぬき市立鴨部小学校


ふるさと発見


・(1)水口の飾り・
 農協の南の田んぼの中で見つけた水口の飾り(みなくちのかざり)とよんでいるものです。
 農家では,田んぼの水口にオフダや季節の草花を立て,さらにヤキゴメやモチバナをお供えして豊作を祈ります。
 早く鳥がきてこれを食べたらよいとか。このお供えをいただくと夏病みしないともいわれています。 植えたイネの苗が丈夫に育ちますように・・・そんな願いがよく伝わってきます。
・(2)丸型ポスト1号・
 このたび本校の玄関先にあるポスト(展示物)の化粧直しが終わり,かつての姿が色鮮やかに復元されました。このポストは鴨部郵便局から本校へ寄贈されていたもので,現在使用されている箱型ポストのひと世代前の丸型ポスト1号とよばれるものです。昭和24年10月付通信文化新報によれば,この丸型ポストの第1回発注は昭和24年7月中旬,東京鋳物に2000個,三谷製作所に1000個出されたとのことで,その時の1個ということになります。鋳鉄製で,記年銘の下側に製造者である東京鋳物株式会社の名前を読みとることができます。
 昭和45年に後継の箱型ポストが登場することで丸型の生産・設置は終了,四角い箱型ポストへの置き換えが全国で進みました。箱型に比べて差し出し口が小さいことや箱型ポストが中に郵便物を貯める袋を吊るし,それを交換するだけで収集できるのに対し,この丸型ポストは小さな取り出し口から郵便物を手でかき出す手間がかかるためでもあったようです。
・(3)ナウマン象の化石・
 鴨部小学校3階にある6年教室前の展示ケースの中にナウマン象の化石3点があるのをふとしたきっかけで知りました。この化石は,本校の校舎を設計した酒井信徳様から平成10年に寄贈されたものです。
 ナウマン象は新世代第四紀の洪積世(今から170万年前〜1万年前)に生活していた体高約3mの像です。洪積世にはその期間中4回の氷河期があり,最後のウルム氷期には氷河の発達により海水面が現在よりも100m以上も下がりました。
 そのため,アジア大陸と日本列島は地続きになっていたそうで,このようなナウマン象やオオツノジカなどを追って人々が移動していました。もちろんそのころ瀬戸内海はなく大平原が発達していました。
 3点の化石にはいずれもカキやフジツボなどの貝殻がついており,後の地球温暖化に伴う海水面の上昇とともに海底深く眠りについていたことを物語っています。大腿骨とみられる一番大きい化石は,長さ70cm余を測ります。
 備讃瀬戸海域では,このようなナウマン象の化石が多く底引き網にかかって採集されており,昔の人々は,これを『竜骨』と呼んで恐れていたということです。
・(4)道標・
 道標は,旅人を目的地へ案内する大きな手がかりとなるものです。小学校から北へ出て西へ250mほど行った所に「左白鳥道,右高松道」と刻んだ高さ137.5cmの道標が立っています。昔ここは浜街道と呼ぶ高松城下常磐橋を起点とする街道が通っていた場所で,しかも1里毎に置かれた『一里塚』があった所でもあります。
 明治6年に鴨部中筋村の村役が当時の第六区長に宛てた回答書の中に「中筋村一里塚より東山村までの道のりは,三丁十五間に御座候」との記録が残っています。昭和35年ころまでここにふた抱えもあるムクの木が生えていたそうで,80cm位の『一里塚』と刻まれた石柱が立っていましたが道路工事の際行方不明になったということです。また,先の道標のすぐ横には,文化12年に立てられた鴨部八幡神社の石灯篭があり,笠に「白・金・八・大」の文字が刻まれていて,それぞれ「白鳥・金比羅・八栗等」の方角をさしているということです。
・(5)鴨部村道路元標
 前回紹介した道標のすぐそばに「鴨部村道路元標」と刻まれた石柱が立っているのをご存知ですか。この道路元標は,大正8年の「道路法」(昭和28年廃止)によって全国の市町村に設置されたものです。大きさは大正9年に官報で告示され,全国同一規格で統一されているもので,高さ60cm幅25cmの略長方形で花崗岩製の石柱となっています。
 鴨部村道路元標の表面には設置場所の町村名が,裏面には香川縣の文字が刻まれています。各町村間の距離はこの道路元標から道路元標までの距離によって表示されていました。
 鴨部村には,藁屋に1基,志度町には,志度寺門前に1基設置されていました。志度町道路元標から鴨部村道路元標までは,9.7km,鴨部村道路元標から津田町道路元標までは5.0kmでした。高松から志度を経て鴨部川土手,藁屋の集落を通って津田,引田を経由して逢坂峠を越える道を国道22号浜道線といい徳島県庁を終点としていました。
・(6)飛脚道の道標・
 高松常磐橋を起点とした志度街道は,東中学校前を通り,鴨部川を尻切へ上がって川土手を南下し藁屋の集落から左折して馬次を目指します。
 尻切より鴨部川の東土手を350m南へ行った所に六番橋がかかっていますが,この橋の少し北側から鳥田の集落へ降りる道がかつてありました。現在は圃場整備によって田となっていますが,ここから『志度の地名史』の著者岡村信男さん宅の北側をまわって100mほど南へ行った所に岡村隆雄さん宅があります。このあたりはいずれも石垣の上に家が建てられていますが,この岡村隆雄さん宅の北に面した石垣の一部に写真のような道標石が残っています。
 この道標石には『左白鳥道』と刻まれており,いつのころのものかはっきりしないのですが,明治期以前のものだろうと地元では伝えております。ここから左手へ折れ,川古川を渡って城の端−連住寺−川古を経て馬次に至る近道として利用されていたとのことです。地元では,この道のことを今でも飛脚の通った道『飛脚道』と呼んでその名残を伝えています。
・(7)談議所極楽寺跡の碑・
 鴨部東山地区の緊急時避難場所となっている長福寺の西南西約300mの田んぼの横に写真のような石碑(高さ135cm,幅37cm)が建っています。
 このあたりは,談議所(だんぎしょ・自治会名はで表記)という地名が残る地域でその昔,仏徒の学問所があったところです。談義とは,仏教の奥義を話すことで仏僧が仏典を研究することを言い,当時はその国の所々の寺院の弟子僧に,仏教の教義や作法を教える談義所が設けられていました。朝廷は,昌泰3年(900)讃岐の国に7つの談義所を設け,その一つが鴨部東山極楽寺内に併設されたものでした。
 江戸時代の郷土史百科事典ともいうべき『讃岐国名勝図絵』(嘉永6年・梶原景紹 著)に「当寺(極楽寺)は勝宝年中行基菩薩の草創なり,初め法相宗にて石田村にあり,今その地を極楽寺という。天長元年(824)4月8日弘法大師鴨部東山に移し再興せり,今その地を談義所という」と書いています。  天長元年に弘法大師がこの地を訪れそれまで石田村にあった極楽寺をこの地に再興し,北に長福寺,南に来覚寺を建立しました。極楽寺は,この地におよそ500年ほどあったのですが,蒙古来襲時には元軍降伏の祈祷をしたり朝廷から荘園を賜ったりするなど国から直々の保護を受ける格式の高い寺でしたが,伽藍が大破して再建が困難となり,延元4年(1339)長尾へ移転していったのです。寺跡から文化年間に密教仏具が,付近から巴瓦,須恵器や土師質土器の破片が出土しています。石碑は昭和61年に談議所自治会・志度町文化財保護協会によって立てられたものです。
・(8)あん餅雑煮・
 新年あけましておめでとうございます。みなさまのお正月はいかがですか。お正月の食事と言えばなんと言っても雑煮を欠かす訳にはいきません。
 田芋や大根など数種類の材料を煮合わせた汁に餅を加えたものを雑煮餅と呼んでいます。雑煮とはごった煮の意味ですが,古く上方(かみがた)では五臓を保養するものとして保臓ほうぞうと呼んでいたそうです。
 ところで,みなさんのおうちではどんな雑煮を食べましたか。写真は,わが家の白みそ仕立ての雑煮で田芋,大根,豆腐にあん餅が入っていて,通称あん餅雑煮と呼んでいます。年寄りから聞いた話では,田芋は子芋がたくさんできることから子孫の繁栄を,大根は丸くなるように切って角がたたないように,豆腐と餅は清く豊かな暮らしができますようにとの願いを込めてお正月に食べるのだそうです。約30年前に嫁いできた家内は餅の中にあんが入っていたのでびっくりしたようで,「まるでおしるこみたい」といつも言っております。
 『香川県民俗地図』(昭和43)によると県内の雑煮として@白みそ丸餅,A白みそあん入り,B白みそ塩あん入り,C赤みそ丸餅,D赤みそ塩あん入り,Eすまし丸餅の6種類が報告され,正月の雑煮は白みそ仕立てが多いが,山村,島嶼部では,すまし汁・赤みそ汁仕立ても見られるとありました。また,聞き取り調査を実施した旧大川郡内の24地点では白みそ丸餅か白みそあん入りのいずれかでした。さらに,インターネットで調べてみますと『日本列島雑煮文化圏図』(奥村 彪先生:伝承料理研究家・神戸山手大学)によればみそ仕立てと丸餅は,京都の文化の影響を受けた土地,すまし仕立てと角餅は,江戸の文化の影響を受けた土地に多いのだそうです。加えて丸餅と角餅には明瞭な分岐ラインがあって石川県金沢→岐阜県高山→岐阜県関ヶ原→三重県四日市→和歌山県新宮を結ぶラインできれいに分かれているということでした。

・(9)長福寺出土の古銭・
 かつて日本国内で中国のお金が流通していたと聞けば、そんなばかなと、あなたは自分の耳を疑うにちがいありません。でもこれは、歴史的事実なのです。
 明治34年(1904)鴨部東山にある長福寺では本堂改築のため裏山を切り取り、用地造成工事が行われていました。と、その時、高さ41cm、胴径31cmの灰白色の陶器の壺が掘り出され、その中から9000枚ほどの1文銭がでてきたのです
 壷の中には銅銭100枚をさしと呼ぶわら縄を通して束ねたものが90本、表に『九貫文花厳坊賢秀房』、裏に『文明十二年三月十九日敬白』と書いた長さ18.2cm、幅4cm、厚さ3oほどの木簡が入っていました。壷の上には皿型の土器で蓋をし、その上に布目瓦を3枚置いて埋めてありました。
 壷の中の古銭は応仁の乱が終わって3年目の文明12年(1480)に埋められていたもので当時の日本国内に広く流通していたものでした。そのため長年の間にさびついていました。そこで、その一部を1枚ずつ離して調べてみると開元通宝(唐)、乾元重宝(唐)、天聖元宝(宋)、元豊通宝(宋)、元祐通宝(宋)、永楽通宝(明)をはじめとして35種類の中国銭であったそうです。全部を精査するとさらに種類は増加するものと思われます。わが国では開元通宝をモデルに和銅開祢がつくられて以来12種類のお金が鋳造されましたが、材料の不足などから信用を獲得できず、広く流通するに至らなかったのです。最後の乾元大宝から江戸幕府による寛永通宝までの約700年間は、国家による銭貨の鋳造が途絶えたため産業の発達に伴って良質の中国銭が大量に輸入され、国内に広く流通していったので す。
 長福寺出土の中国銭は、木簡に書いてあったことから花厳坊賢秀という人からの寄進が長福寺にあり、次に本堂などの改築をする時の資金として住職が貯蔵の意味で埋めたものだろうといわれています。当時の米の値段は1斗2升で100文、1升が約8文であったので9貫文では、約11石余りに当たるお金であったと志度町史上巻(昭和61)は伝えています。
 ところで、ここ30〜40年余りの間に日本全国で発掘調査が行われ、遺跡や遺物の年代判定の根拠となる木簡(木札)がたくさん発見されるようになりました。平城京や平安京では、各地から集められた税につけられた木管が多数発掘され、物流の歴史的解明に大活躍しています。長福寺で明治34年に発見されたこの木簡が日本で最初に発見されたものであったことを最後に付け加えておきたいと思います。

・(10)川田遺跡出土の弥生土偶・
 倭人は帯方郡の東南大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。・・・で始まる中国の歴史書『魏志倭人伝』正式には『三国志魏書東夷伝倭人の条』におよそ2000字で紀元3世紀の日本の様子が書かれています。これでもほかの地域を記述した部分よりも「辺境」としてはだいぶ手厚い表現になっています。
 同書は、倭人の習慣の一つについて『倭では、男子は成人も子どももみな顔や体に入れ墨をしている。昔からの倭の使いが中国に来るとき、みな大夫と称する。夏王朝の6代の王少康の子が、会稽郡に封ぜられたとき、断髪して入れ墨し、海中にひそむ龍の害を避けたという。今、倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕え、体に入れ墨して大魚や水鳥から身を守ってきたが、後にはやや飾りとなった。倭の諸国の体の入れ墨は、国々によって左右や大小などに違いがあり、身分の尊卑によっても異なる。』と、紹介しています。
 ところで、当時の私たちの祖先の習俗を物語る資料として鴨部川田遺跡から写真のような弥生時代前期の土偶が高松自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査で平成3年に発見されています。両眼の下側と口の両側にそれぞれ二筋の入れ墨の線が刻まれています。「おれは強いんだぞ」とでも言っているようです。発見当時きわめて珍しいということで話題となっておりました。その川田遺跡の発見からすでに20年を経過しましたがその後の弥生土偶の発見がなく、中国・四国地方でも6点しか確認されていません。弥生時代の土偶はきわめて貴重な資
料だということで,このほど香川県の有形文化財に指定されることになりました。
 川田遺跡の弥生土偶は、顔面の入れ墨を含め、写実的に表現しているのが特徴で大きさは、高さ11.0cm幅6.6cm、厚さ7.0cmあり、原資料が高松の県立歴史博物館に保管され、レプリカが坂出市の香川県埋蔵文化財センターで常設展示されています。

・(11)鮮海出漁者功労碑・
 今年度から,屋島集団宿泊学習などを通じて他校の友達と交流する機会が多くなってきます。そこで,今回は鴨部から少し範囲を広げて小田坂の下天神山にある石碑について紹介します。
瀬戸内海は,大小3000余の島々の浮かぶ多島海として知られ,大阪,京都などの大都市が発達した江戸時代以降タイ縛り網,サワラ瀬引き網などの大網漁が盛んに行われるようになりました。また,タイ延縄,サワラ流網漁も盛んに行われていました。特に後者は小資本・少人数でできる漁として早くから幾多の困難,苦労を克服して,小さな手こぎ和船で海外へ出漁する者が多く出ました。
香川県海外出漁の最初は,明治13年津田北山の萱野熊吉,和田半兵衛の2人が釜山方面へタイ釣り・延縄を目的として通漁したのが最初とされ,津田,小田の漁師を中心に年を追って盛んになっていきました。明治33年香川県朝鮮海通漁組合(1700人余)が組織され大川郡は通漁者の数が1289人と多かったので津田と小田を中心とした地域に2支部が配置されました。うち津田・小田の通漁者は大川郡の9割を占めていました。
写真の『鮮海出漁者功労碑』は大正6年,こうした先人の労苦に報いるため当時の長福寺住職佐伯覚良,小田村長紀太保太,石原善六らの世話で,小田遠洋漁業者の手によって建てられたもので,小田小学校から北東にある岬の付け根に当たる長福寺別院の庭先にあります。
・(12)タコの酢の物・
 学校の周りの田んぼでは、あちこちで田植えが始まりました。田植機がゴーゴーという大きな音をたてて行き交い、見る見るうちに苗が植わっていきます。昔に比べると短時間で作業が終わってしまいます。今、このあたりで作られている稲はほとんどが日本一うまいと言われ全国に普及したコシヒカリです。コシヒカリは、もともと新潟など寒冷地の品種であったもので、早く作付けすることができ、台風シーズンを前に8月の終わりには収穫できることから温暖な四国でも作られるようになったものです。兼業農家の働き手の多くは、5月連休が明けるまでには田植えを済まそうとするので東山やセトホマレなどが盛んに作られていた昭和40年頃に比べると、機械化が進み1か月も田植えが早く行われるようになりました。
 ところで、稲作は、苗代づくりに始まり、田の植え終わりによって一段落します。ここでは豊作を願う農家の人々の田の神祭りが行われます。苗代ができあがると水の取り入れ口で行う水口祭り(ふるさと発見@)、しろかきの後、初田植えに行うサイケの祭りでは田にナンテンの枝をさしたりしたもので、これは自らの田んぼに田の神の祝福を招こうとするものでした。
 半夏半作(はんげはんさく)と言って梅雨の明ける半夏生までに田植えを終えることができなければ苗の活着が遅れて、収穫量が大幅に減少するので早乙女を出し合うなどの農家の共同労働の目的でもありました。田植えが遅れると梅雨が去り、苗の生長に必要な水が不足するのでどうしても半夏生までに田植えを終える必要があったのです。
 田を植え終わると農家では、サノボリの祭りが行われ、田植え仕事に参加した人々はお客をして豊作を祈りました。讃岐では、サノボリの日にはかきまぜごはん(ばらずし)とタコの酢の物を食べて、植えた苗が大地によく吸い付くようにと祈ったものでした。ここでは、緑のキュウリを苗に、茶色のタコを田んぼの土に、そしてタコの吸引力を苗の活着に期待するというものでした。

・(13)猿橋水路と久米川伝右衛門・
 梅雨入り間近となりました。田を潤す恵みの水が水路の中をゴーゴーと音を立てながら元気よく走っていきます。津田川の水を引いて、鴨部東山地区60haの水田を潤し川古川に連なる導水路のことをわたしたちは猿橋水路と呼んでいます。
 でも、江戸時代末期の鴨部東山地区は、地形上水源に乏しく、その頃二番・茂里に18か所、日浦に16か所の小池があったのですが毎年続くかんばつに対して役に立たず、百姓たちは苦しみぬいていました。
 4代目久米川伝右衛門(1791−1866)はこの問題を解決するため津田村の人々の反対を押し切り、津田川の水を導入することを思い立ちました。文政4年(1821)伝右衛門30歳のとき、死罪を覚悟の上で藩に上申書を提出し、導水路工事の許可を願い出たのです。当時は、武士よりも身分の低い百姓が直接藩に訴え出ることは大罪とされていました。
 伝右衛門は知恵の豊かな人物でもあったので願い出書には発議人が誰であるか分からないように訴人名をまるく記載して提出しました。この方法は江戸時代よくとられた円証文の形式だったのですが、彼の度胸とそこにひらめく誠意と義侠心が幸いして上訴の罪は許されたのです。時の藩主松平頼恕(まつだいらよりひろ)公からはおほめの言葉と激励を受けて勇躍工事に着手することができたのです。
 鴨部地区の南部、猿橋での津田川の水位が東山側よりも3m低かったため猿橋から約1km上流にさかのぼった男山神社の下から津田川に取水路を新設し、飛与田と東川田の間の谷を深く掘り下げて水を東山地区に引こうとしたのですが、今のように土木技術の進んでいない昔のことです。工事は5か月を要しましたが村人たちもみな力を合わせて工事に協力したのでめでたく完成したのです。
 このことにより、二番の蓮池、茂里の菰が池などが水田に変わったのをはじめ、東山村60haの水田がよみがえることになりました。
 伝右衛門はその子兼太郎に世を譲った後、村の子弟を集めて寺子屋を経営。自作の百人一首を自書するなどして子どもたちに教え、慶応2年6月15日にこの世を去りました。
 現在、猿橋水路を望む小高い西側の丘には工事を指導した伝右衛門の墓が立てられています。地域の農民は田植えを前に行われるイデザライの日にはその後も、伝右衛門のお墓に参って感謝の気持ちを伝えたということです。

・(14)リュウゴンサンの雨乞い・
鴨部公園からリューゴンサン(↓)を望む
 まもなく梅雨が明けると暑い夏がやって来ます。農家にとって夏の一番の関心事は,何といっても水でしょう。鴨部小学校を間近に見る鴨部公園の石碑には,地域の人々が長く水の問題で苦労しながら開発に努力してきたことが刻まれています。
 先月紹介した津田川から鴨部地区へ入る水は,猿橋がかりと呼ばれ,この鴨部公園の東側を南北に延びる道路を境に東側の水田を潤し,香川用水から野間池に一旦貯水された水は,野間池がかりといって鴨部川を経由していくつもある関から入って道路西側の水田を潤しています。このように香川用水の完成によって,香川県が安定して農業用水の供給を受けることができるようになったのは昭和56年6月のことでした。
 それまでは,この時期水に困らないよう雨の神様であるリュウゴンサンに,毎年7月初旬には,地域の人々はこぞって五瀬山三角点の東300m余にあるお参りしました。
 この日は,まかないもあり,子どもたちは山の上でもらうおにぎりを楽しみにしていました。鴨部神社からは北北西の方向へ,西山からは西の方向へ尾根づたいに道を登ります。24〜5年前にはそれぞれ50kgを越えようかという重さの庵治石で作った新しいリュウゴンサンを地域の人2人が背中に背負ってこの尾根道を登っていきました。鴨部神社の宮司さんの話では,猛烈な水不足の時には一晩中火をたいて一心不乱に雨乞いをしたこともあったということです。今はその登山道も草に覆われ登る人もなくなってしまいました。
 ところで,瀬戸内各地には,このように山の高い所にリュウゴンサンが祭られていて,人々の信仰を集めていました。市内では小田や羽立にもあり,近隣の三木町にもあります。中には,リュウゴンサンの前で,煮詰めるとアメ(雨)になるといってギョウセンをたくところもあったようです。竜神は空高くに住んでいるので,このように山の高いところにおまつりしたのだといわれています。
 一方,大槌島と小槌島の間を槌の門(つちのと)といってその海底には竜宮があるという信仰は,崇徳上皇の伝説との関連で『玉藻集』1677年(延宝5)にも記述が見られます。小槌島のリュウゴンサンをまつるお御堂にはおびただしい雨乞いの落書きがあり,県内はもちろん対岸の岡山県側からもさかんに雨乞いにきていたことが分かります。時期は昭和4,8,9,14,15年のもので中に志度という地名もありました。志度の方からも船を乗り継ぐなどして雨乞いに訪れていたというのはそれだけ願いが深刻だったのかもしれません。

・(15)祝の膳・赤飯と赤米・

赤米でつくった『なかよし』の文字
 学校の周辺では夏休みの終わり頃から,コシヒカリの収穫が進行中でコンバインのエンジン音が大きくこだましています。
ところで校長室の壁面に亀甲橋から南に向かって平成6年ころに写した1枚の写真が掛かっています。その写真には『なかよし』という文字とかかしの列が写っています。通常の稲の中に少し黒っぽく写っているのが赤米と呼ばれている稲で,一般には古代米と呼ばれています。この赤米はタンニン系色素を多く含み,白米と一緒に炊き上げると白米がピンク色の煮汁にうっすら染まるのだそうです。
 民俗学者の武田明先生から聞いた話では,昔,私たちの祖先が大陸から持ってきた米がこの赤米だったのだそうです。それまでは魚を獲ったり狩をしたり,木の実を採集する生活だったので生活は不安定でした。ところが縄文時代の晩期になってこの赤米が入ってきたことで人々の生活は安定したのです。その後,2000年にわたって品種の改良が行われおいしい米つくりが追求されるようになり次第に米は白米が主流となって赤米の姿を見ることはなくなってしまいました。現在耕作されている赤米はほとんどが神事用に継承されているものでその種子を鴨部小学校の体験学習に田村勇校長先生が取り入れられたそうです。『なかよし』の文字は鴨部 小学校のなかよし班活動に今も続いています。
 今,私たちの生活習慣の中に子どもが生まれたり,名前を付けたり,結婚したりするなどその家族に記念すべき行事のあるときには赤飯を炊いて祝います。これは,最初に赤米を持って危険を冒しつつも海を渡って来た祖先の労苦に感謝することを忘れないという意味合いがあるのだということです。今は赤米がなくなり白米が主流となったので小豆の煮汁で赤い色をつけ,昔を偲ぶのだそうです。
・(16)大坂農人橋京屋の流れをくむ喜田屋の唐箕(とうみ)・
 本校には,大正八・・・松嶋今橋筋七代目紀田吉造・・・と書かれた紀年銘民具の唐箕があり大切に保存されています。
 唐箕は,玄米に混入したごみを風力によって取り除いたり,良米とくず米とを選別するための道具で,玄米をうつし込むじょうご部,風を起こす起風胴,良米とくず米・ごみをより分ける選別部からなります。
 兵庫県農具図解』(巻の一・摂津国武庫郡・菟原郡明治22年)にはその使用法とともに製造費4円50銭が記されています。この金額は,当時の他の農具と比べてもそうとう高価なものであったといえるでしょう。
 さて,『日本農具要覧』によれば,唐箕は,寛永年間(1624〜43)に難波の農人橋に住んでいた京屋七兵衛と同清兵衛が初めて製作したと伝えています。唐箕についての古記録としては,佐瀬与次右衛門による貞享元年(1684)が初見で,「ぬかを除くには,昔から箕を使って吹き飛ばす。今では唐箕を使う人もまれにはいる・・・。」と紹介しています。また,正徳年間(1711〜15)の『和漢三才図会』,文化元年(1804)の『成形図説』には,当時の唐箕の図が紹介されています。さらに,江戸時代末の文政年間(1818〜29)の『延享常陸民間旧事』には「唐箕は,千歯こぎより4〜5年遅れて元禄(1688〜1703)より後に伝わった・・・。」との記述があります。そして,慶応年間(1865〜67)の『農具揃』には,「・・・また,昔は唐箕というものもなく大きな箕を使っていたという。寛政年間(1789〜1800)までは,この荒城にも唐箕はなかった。私の4代前の当主が初めてこれを買い求めたところ,多くの人々が訪ねてきては珍しがって眺めていくので賑やかだった・・・。」として,飛騨国吉城郡箕輪村の大坪家に唐箕が入った時の様子が記されています。
 いずれにしても唐箕は江戸時代の初期には国内において生産が開始され,半ばには珍しがられながらも全国各地へ普及していったようです。
 さて,松嶋今橋筋とは,今の琴電今橋駅から旧浜街道沿いに向良神社,松嶋神社を経て千代橋に至る区間のことで,かつては多くの農具商や種物商が軒を並べていた所です。前出の『日本農具要覧』には「天保年中(1830〜44)讃岐の住人喜田屋傳兵衛,難波より帰讃せし,高松松嶋に住み,唐箕製作せしに高松藩奉行千葉氏により大いに援助さる。時の農人おくら唐箕と呼べり」と記しています。本校の唐箕製作者である紀田吉造氏とのかかわりが注目されるところです。

・(17)100年前のこたつ・
 讃岐では旧暦10月の亥の日(今年は新暦11月9日)をお亥の子さんの日といって,田の神に収穫を感謝する日としている所が多くありました。この日は子どもたちが集まってワラや石で作った亥の子を持って家々のカド(広庭)の地面をついてまわっていました。「祝え,祝え」とかけ声をかけて亥の子つきが始まります。「げんじゃ亥の子,大黒さんというには,一に俵ふんまえて,二ににっこり笑ろうて,三でモチつくって,四で世の中ええように」などと言いながらはやしたてます。まわって行った先々でモチや菓子,煎ったソラマメがもらえるので子どもたちには楽しみな行事の一つでもありました。
 さて,この亥の日を境に讃岐路では,こたつを出したり障子を張り替えたりして冬支度をしたものです。鴨部小学校には「100年前のこたつ」と題して説明の書かれたこたつが2階資料室にあります。写真のように縦26.0cm,横26.0cm,高さ25.0cm瓦質の焼き物でできています。近所のお年寄りにたずねると前に飛び出した箱のような物の中に灰を入れ,火消し壷に入れておいた消し炭に火をつけてその上を灰で覆って暖をとったのだと教えてくれました。昔は,敷布団の上へこのこたつを置き,こたつの上から毛布,さらに敷布団をかけて暖かくしたのだそうで,燃料も次第に消し炭から安全で長持ちのする豆炭に,さらに豆炭アンカに変わっていきました。
 そして,昭和30年代から40年代の高度経済成長期に入ると寝具や暖房器具も電気毛布や電気こたつなどの電気製品が普及するようになって私たちの生活は大きく充実していきました。
・(18)大串の狼煙台・
 11月28日,福山雅治主演のNHK大河ドラマ『龍馬伝』が最終回を迎えました。幕末から明治維新へ移り変わって行く日本の様子が克明に描かれていて,主人公坂本龍馬やそれを取り巻く登場人物のファンだった皆さんも多かったのではないかと思います。
 さて,坂本龍馬が活躍したこの時代の遺跡が今も鴨部小学校の北,大串半島の先にあるのをご存知でしょうか。夏になると志度野外音楽広場で色々な催し物が開かれます。この広場の東側の小高い丘の上に直径約5m,高さ約2m程の円形に積み上げられた石囲いがあります。この石囲いには南北の位置に中へ出入りできる切り込みがあって,そこで火を焚いて煙を上げ,外国船の接近を高松の城へ知らせる役割を担っていました。
 瀬戸内海歴史民俗資料館の岩田家文書の中に『海辺狼煙場図』の記録があって狼煙筒は,往古より筒内を井輪のごとく石をもって組み立てるほかは土をよせてつき立て両方に出入り口ありとして,高さ内法一間,径二間あるいは一間半として説明図が描かれています。高松藩の東讃関係では鳴門海峡から接近する外国船を葛峯(引田:与治山),蕪越山(白鳥:蕪越),湊川(白鳥:湊川口),小磯北山(丹生:小磯),鵜部山(鶴羽:鵜部),虎が鼻(津田:北山),馬歯山(小田:馬歯山),大串山(鴨庄:大串),京上摯(庵治:摯),長崎鼻(高松:屋島),新湊(高松:東浜)の順で伝えることになっていました。
 大串の狼煙場はもと約100mほど南よりの高台にあったものですが,グリーンヒル大串の工事に伴い,昭和59年,現在の地へ移転復元されたものです。なお,車で気軽に見学ができるのは,この大串の狼煙台で,原位置のまま保存状態が最もよいのは虎が鼻の狼煙台です。また,大串狼煙台の北側の長ぞわい観音のある広場が大筒台場跡として知られています。
 嘉永6年にアメリカのペリーが浦賀に上陸してからは,国内で攘夷,開国の議論がまき起こりました。志度浦へも万延元年(1860)にイギリス船,文久3年(1863)にアメリカ船があい次いで入港して志度浦の人々を驚かせました。高松藩は,いざ鎌倉の事態に備えて志度の鋳物師たちに大砲や鉄砲をたくさん作らせたのだそうです。鋳物師たちが多くすんでいた所が金屋の地名で残っています。
・(19)お年玉ともち・

お年玉のポチ袋
 お正月に子どもたちが楽しみにしているものはなんと言ってもお年玉でしょう。子どものころは晴れ着を着て,かるた取りやたこあげ,こままわしなどお正月特有の遊びをする楽しみもありますが,これよりお年玉にまさる楽しみはないでしょう。
 ところでお年玉といえば,子どもの頃はだれでもポチ袋に入ったコインやお札のことと思ったりするのですが年を経るに従って新年の贈答品に使う言葉だということが分かってきます。
 ところで,お正月は,歳神(としがみ)さまを迎え,家族そろって一家の幸せを祝います。歳神さまへの供え物には丸い鏡もちを重ねて供えます。正月三が日に食べるお雑煮にももちが欠かせません。
 東北地方では,お正月に作る小さな丸もちを『お年玉』と言って,子どもなどに与える風習があります。金銭に変わったのは比較的新しいことだといいます。
 本来,『お年玉』とは,祭神に供えるもちのことを言い,霊力のこもったもちを神様からお裾分けしてもらって一年を無事に過ごすことができると信じられていたのです。だから祭神からの代理者である一族の長老(年長者)などからお年玉をいただく習慣となったようです。江戸時代には,主人が奉公人に神棚から下げたもちを『お年玉』といって配っていたようです。したがって祭神からの加護をいただくことの具体的表現が『お年玉』であるということができます。祭神の霊力にふれることによって無事新しい一年を過ごすことができると当時の人々は考えたのでしょう。
・(20)節分とまめまき・

鴨部神社の節分祭
 2月の年中行事といえばなんといっても節分祭です。幼稚園や小学校・保育園などでは豆まきをして,なきむし鬼やいじわる鬼,なまけ鬼を追い出す日として豆まきの行事が広く行われます。でも節分という言葉はもともと,立春,立夏,立秋,立冬の前の日を指し季節の変わり目という意味があります。特に節分が立春の前日を意味するようになってしまったのは,立春が旧暦で1年の始めと考えられていたことによるものです。
 特に,立春の節分に豆をまく『豆まき』の行事は,追儺(ついな)と呼び,中国から文武天皇の頃に伝わったものだそうで,一般には『鬼やらい』『なやらい』『厄払い』などと呼ばれ,疫病をもたらす悪い鬼を追い払う意味があります。平安時代には宮中で陰陽師により大晦日に行われておりました。
 三宝や升に入れた豆を神棚に祭り,夜になると戸や窓を開けて「鬼は外,福は内」と言いながら奥の部屋から順番に豆をまき,玄関が最後になります。つまり,家の中にいる鬼を追い出してすぐに戸や窓を閉めて,歳の数だけ豆を食べるとよいのだそうです。このように「福は内,鬼は外」と言いながら豆をまくようになったのは室町時代の頃からで,江戸時代には庶民にも広まっていきました。『神霊矢口渡』(しんれいやぐちのわたし)の作家として知られる福内鬼外(ふくうちきがい)の名は平賀源内のペンネームとしてもあまりに有名です。なお,この時の豆は,必ず煎った大豆を使います。
 また,節分には昔から鰯の頭を柊(ひいらぎ)の枝に刺して鬼門や門口に挟む風習があります。悪い鬼はこれを「鬼の目つき」といってとげを恐れて逃げ出すのだそうです。これには,魔よけの意味があるのだと言われています。
 さらに,節分の日には恵方(えほう)を向いてだまって巻きずしの太巻きを丸かぶりするとよいと言われています。この習慣は大阪の海苔問屋協同組合が節分のイベントとして行ったものが全国へ広まったものですが,福を巻き込む=巻きずし,福を切らない=包丁を入れないことに通じるのだそうです。
 さて,鴨部神社では,2月6日14:30から節分祭(まめまき)が行われるそうです。きっと校区の皆様も楽しみにしていることでしょう。
・(21)さぬき市内の古墳をたずねて・

古墳の様子を説明する古瀬教授

古枝古墳前方部(手前)から
後円部(後方)を望む
 最近は,『歴女』という言葉も生まれて,歴史に関心を示す人々の人口もずいぶんと増えてきました。6年生が郷土の偉人久米川伝右衛門の功績を調べて劇化しクローバー集会で発表したのも去年のことでした。
 鴨部地区で古墳のことを調べたいのだけれどどこへ見学に行けばいいですか。適当な場所はありませんかと聞かれることがよくあります。西山1〜3号墳,御所1〜4号墳,成山1〜3号墳などが代表的なものですが,今はそのほとんどが藪の中にあって古墳の場所や形が素人目にもはっきりと分かるものはありません。それなりの知識と経験を持つ人でもいないと探し出すことが難しいのが現状です。
 でも,安心してください。最近は,ここ5か年をかけてさぬき市内でも津田湾岸に所在する古墳の調査が進んでおり,調査の終わったところでは下草刈りが行われ,案内板も整備されているので比較的容易に見学できるようになりました。校区から近い順に行くと龍王山古墳(円),岩崎山4号墳(方円),赤山古墳(方円),うのべ山古墳(方円),けぼ山古墳(方円),一つ山古墳(円)が隣町の津田湾を取り囲むように築かれています。これらの古墳は,なぜ津田のように土地生産力の低い場所に築かれたのかという疑問から六車恵一氏の論文『讃岐津田湾をめぐる4・5世紀ごろの謎』(昭和40年:香川県文化財協会報特別号7)に紹介され,日本考古学研究の中心テーマの一つになってきたところです。
 2月19日(土)には,これらの古墳と関連して津田川中流域の大川町の古枝古墳(ふるえだこふん)測量調査に伴う現地説明会が行われ,約100人の考古学ファンが参加しました。
 当日は調査を担当した広島大学古瀬清秀教授の説明がありました。古瀬教授によると讃岐の古式前方後円墳である古枝古墳の特色は@後円部が平野部に向かって造られていること。A遺体を納めた主体部(竪穴石室)が古墳の軸に直交するかたちで東西に向いて配置されていること。B前方部が三味線のバチ型をしている点にあるそうです。これよりも後に築かれた富田茶臼山古墳は,堺市の大仙古墳(伝仁徳天皇陵)の約3分の1の規模を持つ四国最大の古墳ですが,大和政権下にあって畿内型古墳の特色である前方部が大きく,墳丘が明瞭な鍵穴型をしています。
 この古枝古墳の上手に卑弥呼が魏の皇帝からもらったとされる三角縁神獣鏡の出土で知られる古式前方後円墳の奥3号墳があったことや津田湾の古墳の存在は,大和政権による国家統一の過程を物語るものとしてとらえることができます。富田茶臼山古墳が造られた後は,大川平野の大型古墳は造られなくなって姿を消してしまいます。なお,お子様の学習や遺跡見学についてのお問い合わせがありましたら鴨部小学校までお電話ください。